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シドヴィシャス

シドヴィシャス

- Biography -

シド・ヴィシャスは本名をジョン・サイモン・リッチーといい、1957年5月10日にサウスイースト・ロンドンのルイシャムに生まれた。父はバッキンガム宮殿の衛兵で、母はイギリス空軍に入隊していたが、ジョンを出産後両親は破局し、母アンはイビザ島に引っ越しヒッピー的な生活をしていた...

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ロンドンに戻った母は、1965年にクリストファー・ビヴァリーと再婚し、ジョンの名前もジョン・サイモン・ビヴァリーとなるが、父がすぐに病気で他界し、15歳で私立のハイスクールを中退し、ズボンの製造工場で働くも数週間で辞め、ロンドンのハックニー・カレッジでアートと写真を専攻するようになる。

その学校でジョン・ライドンと知り合い仲良くなったサイモン少年は、ジョンが飼っていたハムスターの名前からシドと呼ばれるようになる。当時デヴィッド・ボウイやロキシー・ミュージック等のグラム・ロックに心酔していたシドは、ボウイがプロデュースしたルー・リードの『トランスフォーマー』のアルバムの中の1曲「ヴィシャス」(悪徳の意味)にちなんで、シド・ヴィシャスと名乗るようになり、このころから奇抜なファッションやツンツンのヘアスタイルで学校でも目立った存在となっていった。また麻薬中毒だった母親の影響で、この頃からスピード(覚せい剤)の注射を打ち始めるようになる。

ジョン・ライドンとともにキングスロードのはずれにあった「セックス」という過激なファッション・ブティックへ出入りするようになると、店のオーナーで後期のニューヨーク・ドールズのマネジャーもしていたマルコム・マクラレンが、ロンドン版のドールズを作って売り出そうと画策していたバンドのヴォーカリストにジョン・ライドンをスカウトし、ジョニー・ロットンという芸名を付ける。彼らはセックス・ピストルズと名付けられ、ロンドンのクラブでライヴ活動を始めるが、当時のシドはロットンの友達だったことから、ピストルズのライヴにはいつも顔を出す取り巻きの代表的存在となり、また過激なステージで客を扇動するパンク・ロックを標ぼうしていたピストルズのライヴで、客と喧嘩したり何度も暴力沙汰をおこしたりして、当時のロンドンのパンク・シーンでは危険な人物としてその名を広めていくことになる。またライヴ会場でぴょんぴょんと上下に飛び跳ねるポゴ・ダンスを最初にやり始めたのもシドだと言われている。

1976年9月20日と21日にロンドンの100クラブで「パンク・ロック・フェスティバル」が開催され、ピストルズはクラッシュやダムドらと共に出演したが、シドはその際、のちにスージー&ザ・バンシーズのヴォーカリストとして売り出すスージー・スーが即席のメンバーを集めでっち上げた最初期のスージー&ザ・バンシーズのドラマーとして初めて人前でライヴ出演をする。だがこの時のシドのドラムはほとんどワンビートを刻んでいただけだったという。

シドは、のちにジョン・ライドンが結成したパブリック・イメージ・リミテッドのギターとなるキース・レヴィンらとフラワーズ・オブ・ロマンスというバンドもやり始めてヴォーカルに収まったが、ほとんど練習だけで、一度もライヴをやらずに解散してしまった。それはシドがロットンと仲が悪かったグレン・マトロックに代わって、セックス・ピストルズの二代目ベーシストとしてスカウトされたからだ。

1977年3月3日に正式にピストルズに加入したシドだったが、ベースのテクニックはからっきしなく、モーターヘッドのレミーにベースを習おうと頼んだものの、レミーが途中で匙を投げてしまったという。ピストルズのデヴュー・アルバム『勝手にしやがれ』では、ほとんどのベース・パートをギターのスティーヴ・ジョーンズが上からオーバーダヴィングしたそうだ。だが、シドのルックスの良さや過激なファッションや言動は、ピストルズに更なるパンキッシュなイメージを付け加え、彼らの人気は不動のものとなっていった。ピストルズは1978年1月にアメリカ・ツアーを開始するが、1月10日のダラスでのステージでは、シドが自分の胸を剃刀で切り、血まみれになってステージに立っているのが、『ライブ・アット・ザ・ロングホーン』の映像でも確認できる。シド・ヴィシャスはベーシストとしてよりも、ある種の凶暴で過激なアイコンとして、ファンを熱狂させていたのである。

シド・ヴィシャスにとって人生の大きな転機となったのは、一つ年下のアメリカ人女性、ナンシー・スパンゲンと出会い、恋に落ちたことであった。もともとはアメリカのクラブ・シーンで名の知れたグルーピーだったナンシーは、気に入った有名ミュージシャンと次々とベッドをともにすることで有名だった。マルコムはピストルズの76年12月3日のアナーキー・ツアーに、ニューヨークから、かつてのニューヨーク・ドールズのメンバーだったジョニー・サンダースとジェリー・ノーランが新たに結成したハートブレイカーズを招へいした。そのツアーにジェリー・ノーランの追っかけだったナンシーがやってきて、最初はロットンを狙っていたのだが、結果的にナンシーはシドを射止め、恋に落ちた二人は同棲生活を始めて四六時中一緒にいるようになる。ナンシーはヘロインの常用者だった。それまでスピード(覚せい剤)はやっていたがヘロインはやっていなかったシドは、ナンシーによってヘロインに溺れていき、重度のヘロイン中毒になっていく。

1978年1月16日にピストルズは解散するが、マルコム・マクラレンはピストルズの映画『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル』を製作し、シドはこの映画の中でフランク・シナトラで有名なスタンダード曲「マイ・ウェイ」をパンク・ヴァージョンで歌うシーンを撮影している。シドとナンシーは新たにニューヨークへ移り住む計画を立てるが、この旅行資金稼ぎのため、78年8月17日にロンドンのエレクトリック・ボールルームで、ピストルズの初代ベーシストのグレン・マトロック、ダムドのドラマーのラット・スキャビーズ、グレンのやっていたリッチ・キッズのギターのスティーヴ・ニューと共に、ザ・ヴィシャス・ホワイト・キッズという即席のバンドを作り、ヴォーカリストとして一夜限りのライヴを行っている。ヴォーカリストとしてのシドは、かなりパンキッシュでなかなかかっこいい。のちにライヴ盤も出ている。

78年8月末にニューヨークに渡ったシドとナンシーは、アーティストが多く住みついていることでも有名な西23丁目のチェルシー・ホテルに部屋を借り暮らし始める。ドラッグの売人たちの取引場所となっていた当時のチェルシー・ホテルで、ジャンキーだったシドとナンシーは日々ドラッグに明け暮れる日々を送っていた。ナンシーは薬を買うためにストリップ・ダンサーをしたりしていたが、すぐに自分をシドのマネジャーだと公言し、シドを売り出して金を稼ごうと、マクシズ・カンサス・シティに交渉し、78年9月28日・29日・30日の三日間、シドの連続ソロ公演を開催する。バックには元ロンドン・カウボーイズのスティーヴ・ディオール(ギター)、元ニューヨーク・ドールズで元ハートブレイカーズのジェリー・ノーラン(ドラムス)、元ニューヨーク・ドールズのアーサー・ケイン(ベース)が参加、この3人は当時アイドルズというバンドを始めていた。またこれに先立つ9月7日のギグにはクラッシュのアルバムのミキシングでニューヨークに来ていたミック・ジョーンズも参加している。シドのヴォーカルはパンキッシュでかっこいいが、ドラッグや酒でぶっ飛びすぎていたようで、歌詞を忘れて殆ど歌っていないナンバーなどもあり、賛否両論だった。9月28日と30日のライヴの模様はのちに2枚組のライヴ盤としてジャングル・レコードから発売されている。殆どがニューヨーク・ドールズやイギー・ポップ、ジョニー・サンダースら、シドの敬愛するアーティストのカバーと、エディ・コクランやモンキーズ等のオールド・ロックン・ロールのカバーで占められていた。

1978年10月12日、シドは恋人ナンシー・スパンゲンを殺害した容疑で第2級殺人罪容疑で逮捕される。シドとナンシーが借りていた100号室のバスタブの横で、腹部をナイフで刺され出血多量で死んでいたナンシーが発見されたのだ。前夜ナンシーは何人かの顔見知りのドラッグ・ディラーを部屋に呼び寄せ、薬を買っていたという複数の証言がある。ナイフはシドのものだったが、血はきれいに拭き取られていた。ナンシーに最後に会った彼らの知人の証言では、その時シドはドラッグで意識を失いベッドの上で昏睡状態だったという。レコード会社から彼らに送られた2万5千ポンドの印税がそっくり何者かに持ちさられていたことから、ナンシーの殺害はこの部屋を訪れた誰かによって行われたという説もある。また、日ごろから自殺をほのめかしていたナンシー自らの自殺説や二人の心中未遂事件かなど、事件は不透明なまま現在に至っている。

翌日レコード会社の保釈金で釈放され、ニューヨークに来た母親の保護下に置かれたシドだったが、10月22日には深いうつ状態に陥り、割った電球と剃刀の刃で腕を切って自殺を図り、病院に収容される。12月9日にはニューヨークのディスコでパティ・スミスの弟に5針を縫う怪我をさせ、刑務所に再送されている。

2月1日、保釈されたシドはナンシーの死後に付き合い始めた恋人ミシェルのフラットへ向かう。そこには母親のアンや数人の友人たちが集まっていて、シド釈放記念の小さなパーティが行われた。シドは友人にヘロインを調達してもらい、さっそくそれを打っていた。シドはやがて意識を失いソファで眠ってしまった。友人たちはその後部屋を去ったが、翌日2日、シドは死体で発見された。更なるヘロインを欲しがる息子に母親が与えてしまったと言われているが、服役中に薬が抜けていた状態のシドの体に、純度の高い当夜のヘロインが過剰に反応して、オーヴァードーズ状態になったのがその死の要因だったようだ。

シドの死後、ナンシーと共に埋めて欲しいというシドの遺言を果たすため、母アンはそれを拒否したナンシー家の家族に無断でフィラデルフィアにあるナンシーの墓まで出向き、シドの遺灰をその墓に撒いてシドの想いを果たしてやったという。

母アン・ビヴァリーは1997年9月3日にヘロインのオーバードーズで自殺した。なんとも悲しいシドと母の物語である・・・

シドのシングル「Something else」は、発売後2週間で38万2000枚のリリースを記録している。この記録はセックス・ピストルズの楽曲のうち最大のヒット・ソングであった「God save the queen」を10万枚以上も上回り、事実上のセックス・ピストルズ関連楽曲ではNO.1セールスとなっている。

文:鳥井賀句

ナンシー・スパンゲン

ナンシー・スパンゲン

- Biography -

ナンシー・スパンゲンは1958年2月27日に米フィラデルフィア州メインラインにセールスマンの父フランクと、のちにオーガニック・ショップを経営する母デボラの間に長女として生まれている(妹と弟がいる)。ユダヤ系の裕福な商人の家庭に育つが、赤ん坊のころから癇癪持ちの情緒不安定な子供で、11歳の時には激情的な性格ゆえに心理療法の集中治療を受けさせられ、15歳の時には...

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ナンシー・スパンゲンは1958年2月27日に米フィラデルフィア州メインラインにセールスマンの父フランクと、のちにオーガニック・ショップを経営する母デボラの間に長女として生まれている(妹と弟がいる)。ユダヤ系の裕福な商人の家庭に育つが、赤ん坊のころから癇癪持ちの情緒不安定な子供で、11歳の時には激情的な性格ゆえに心理療法の集中治療を受けさせられ、15歳の時には統合失調症と診断されている。ハサミを振り回してベビーシッターを殺すと脅したり、ハサミで手首を切って自殺未遂をしたこともあった。両親はそんな彼女を問題児童が通う学校に入学させた。

1974年にコロラド大学ボルダー校に入学するも、マリファナを購入した罪で逮捕されコロラド州から永久追放される。17歳で家を出てニューヨークに移り住み、タイムズスクエアでストリッパーや売春婦をやりながら麻薬の売買をするようになり、マクシズ・カンサスシティやCBGBなどのロック・クラブに出入りしてエアロスミスやニューヨーク・ドールズ、ブロンディなどと親しくなり、クラブシーンで気に入ったロック・ミュージシャンとならすぐに寝るグルーピーとして有名になった。

1977年の初頭、ツアーでロンドンに滞在していたジョニー・サンダース率いるハートブレイカーズを追っかけてロンドンに来たナンシーは、当初はハートブレイカーズのジェリー・ノーランの追っかけだったが、彼らのツアー・メイトだったセックス・ピストルズのジョニー・ロットンに目を付け彼をくどくが相手にされなかったため、シド・ヴィシャスにアタックし、見事シドの恋人に収まるようになる。

二人はすぐに同棲を始め、やがて切っても切れない関係になっていく。シドはナンシーのアバズレ感や彼女とのセックスにものめり込んでいたが、それよりも彼女が教えてくれたヘロインの虜になっていく。それ以前にもスピード(覚せい剤)の注射はやっていたが、ヘロインは初めてだったシドは、ナンシーとの「セックス・ドラッグ・ロックンロール」ライフに耽溺していくことになる。

気性の激しい二人は互いに暴力を振るいあったり、情緒不安定になって二人で心中するなどと周囲にほのめかしていたともいう。

1997年1月にセックス・ピストルズが解散すると、シドとナンシーは8月末にニューヨークに渡り、西23番街の伝説的なチェルシー・ホテルで長期滞在を始める。有名なアーティストたちが多く滞在したことで知られるこのホテルは、当時はドラッグの売人たちが出入りすることでも知られていた。ナンシーはシドのマネジャー役に収まり、マクシズ・カンサス・シティにシドのソロ公演の企画を売りこんだ。結果的に9月7日、28日、29日、30日の四日間、シドはバックにアイドルズ(ドラム:ジェリー・ノーラン、ベース:アーサー・ケイン、ギター:スティーヴ・ディオール)を配し、ヴォーカリストとしてソロ公演を行う。動員的には大成功だったが、酒や薬でふらふらになりまともに歌えない曲もあったりと、そのパフォーマンスには賛否両論が起こった。

1978年10月12日、二人が借りていたチェルシー・ホテルの100号室で、ナンシーは腹部をナイフで刺され死亡しているのが発見された。ナイフはシドの持ち物だったことから、シドは殺人容疑で逮捕されたが、レコード会社の保釈金で翌日保釈されている。シドは当初は自分がナンシーを殺したと思い込んでいたようだが、次第に自分が殺したのではないと主張するようになった。ナンシーが死体で発見される前夜、その部屋をドラッグの売人や複数の知人が訪ねており、レコード会社から送金された二万五千ポンドが消えていたことから、シド以外の何者かが金を奪うためにナンシーを刺したという推論もある(シドはその間、薬物のために昏睡状態だったとの証言もある)。結果的にこの事件の4か月後に、シド自身もヘロインのオーバードーズで死亡してしまったため、この事件の捜査は打ち切られ、法律的な結審は出ていないままである。

ナンシー・スパンゲンは1978年10月12日にその20歳の短い生涯を閉じた。彼女は両親の手によってフィラデルフィアの墓地に埋葬された。シドはナンシーの死後に自分もナンシーと一緒に埋葬してほしいというメモを残していたが、それはナンシーの両親によって拒否されたため、シドの母アンはこっそりナンシーの墓に忍び込み、シドの遺灰をナンシーの墓に降りかけたという。ナンシーの母のデボラ・スパンゲンは1996年にナンシーの伝記本「And I Don't Want to Live This Life」を出版している。

ナンシー・スパンゲンの名前は、シド&ナンシーというロック界の悲劇のカップルとして人々の記憶にこれからも生き続けていくだろう。

文:鳥井賀句